Gayのお言葉

C-2

破水しちゃった Hasui Shichatta

「ショック」を表現する場合に、ゲイたちはしばしば【破水】という言葉を用いる。「嬉しくってチビりそう!」とか「目ん玉が飛び出した!」とか「マジで心臓が止まった!」など、予想外の精神的高揚がもたらされたときに、肉体のコントロールがきかなくなった状態を大袈裟に戯画化して表現する手法はさして珍しいものではない。ようは相手にヴィジュアルを喚起させて、受けた驚きの激しさをイメージさせようとしているわけ。つまり、挿絵つきで感情を説明しているのだ。

それにしても誰が使い出したかは知らないが、破水というのは素晴らしい言語センスである。チビるよりもうんとこさドラマチックで、目玉が飛び出すよりすっとリアルで、心臓停止よりもインパクトがある。また男性はテレて口に出しにくく、女性が言うとナマナマしくなってしまう、まさにゲイにしかできない表現だからだ。

一時、女性作家の作品を【子宮感覚】という言葉で説明するのが流行った。これは男性の読み手が、そこに描かれた「自分にはワケのわからない生理的な心象」を、しかし「わからない」といってしまうのは恥ずかしいので、とりあえず自分にない(しかし、なくても当たり前の)器官に責任をなすりつけちゃった怠惰でしかない。【男根感覚】なんて言葉が存在していないってだけで明白アストリンゼンである。が、しまいには「女性は子宮でものを考える」などという失笑ものの論理まで登場する始末。

男も女もゲイも、ものを考えるのは頭である。しかし思考経路が違えば導き出される≪解≫は当然のように異なってくる。一見不可思議な≪解≫が提出されていても、丁寧にその思考経路を辿ってゆけば自ずと筋道は見えてくるものだ。なぜ、それを端折ろうとするかね? ひょっとしたら男が破水するくらいには女も子宮で事象を捉えているのかもしれない。けれど、よーほーどーのショックを受けない限り子宮は胎児を育てることに専念すると儂は思う。

たぶん性差や性向にかかわらず「びっくりして破水しちゃった!」と言える世の中になれば、根拠なく男が信じている子宮についてのナンセンスな誤解や幻想も消えてゆくに違いない。

A-1

ハッテン場 Chance Meeting Place

その目的がセックスであれ、恋人探しであれ、同性同士が「お相手」をみつける方法は現代でも異性間ほどバリエーションに富んでいない。最近のメインストリームである『エロミク』などのSNSサイトや掲示板といったウェブサイト。入れ替わりでフェイドアウトしつつあるゲイ雑誌の投稿欄。定番中の定番であろうゲイバーやクラブでのピックアップ。そして【ハッテン場】における〝出会い〟である。

かつてはハッテン場というと見通しの利かない、木立の生い茂った、あるいは街灯などが少ない野外のパブリックスペースの死角エリアを利用して、その時限りの快楽を貪る場所を指していた。例外的に「お仲間がたくさん集まるらしいよ」というクチコミなどによって公衆浴場や映画館、もしくは特定の公共交通機関の特定車両がハッテン場化するケースもあるが、基本的には公園や海岸(またはそれらに付随するトイレ)などである。

近年はゲイ・サウナやゲイ専用の宿泊休憩施設(かつては【ヤリ部屋】【乱交旅館】などと呼ばれた時代もあった)などもハッテン場と称するようだ。というか、むしろこちらが第一語義となりつつある。最近は設備の整った清潔な場所も増えており、また、一時流行した【オヤジ狩り】などの影響もあってリスクを伴う野外ハッテン人口が減少しているからだろう。しかし、とくに高齢者のなかにはセーシュンを野外ハッテン場で過ごしている者も多く、〝お外〟でないと興奮しない体になってしまっているなんて例もしばしば耳にする。おそらく消えてなくなることは未来永劫ないだろう。

たとえば松任谷由実などゲイの厚いファン層を持つ歌手が「アンタたち客席でハッテンしてんじゃないわよ!」とステージから冗談を飛ばしたりするくらいで、それはゲイたちの意識のなかで必ずしも後ろ暗い行為だとは思われていない。どこで出会おうが、ゲイの出会いにはなんのギャランティーもない。代官山で擦れ違いざま互いに「だってフォーリンラブ突然」だろうが、サウナの大部屋で寝ていて「ふと目を覚ましたら咥えられていた」的人に言えない発端だろうが、そのあとの成り行きは神のみぞ知る。

シチュエーションを選んでいられるほどゲイは出会いに恵まれていない。―― つまりは、それだけのことかもしれないけれど。

B-1

ドラァグ Drag

ドラァグ・クイーン」と呼ばれることも多い。かつて日本では「ドラッグ・クイーン」という言い方が一般的だったけれど、麻薬類の総称である「ドラッグ」が言葉として市民権を得てゆくなかで、区別をつけるために英語発音に近づけたこの言葉が定着していったものと思われる。

ドラァグは通常、女装の男性をさす。過剰にメイクアップを施し、装飾過多の衣装を身にまとい、派手なウィッグをかぶった異装である。おネエ言葉】が女性らしい話術をめざしていないように、ドラァグもまた女性的であろうとする試みというよりは「女性」という記号をデフォルメさせて装着することによって〝特殊ないきもの〟もしくは〝虚構の女〟を体現する行為だ。美醜すらも問題にならない。つまり性的な目的からは乖離している。

心理的、性的な因果関係にもとづいた女装は【トランスジェンダー】の領分。また「女になって男に愛されたい」という欲求を外見的に女性化することによって満たそうとする者は【女装子】(Jyosoko)の呼称で区別される。ゲイでない人間が【オカマ】というときは、このグループをイメージしていることが多い。【ドラァグ】は、そのいずれにも属さない。

Priscilla_koenigin_wueste_002彼らのアクティヴィティやバリエーションを最も端的に表現したテクストはオーストラリア映画『プリシラ』(The Adventures of Priscilla, Queen of the Desert:94)であろう。ドラァグ・クイーンたちが「なんのために」異装するかを理解するには最適の資料となろう。アイデンティティの模索と確立、パフォーマンスによる自己表現の欲求、反体制の表明、変身の快楽、さまざまに絡みあった動機が過不足なく描かれている。この映画の成功によって、オーストラリアはドラァグたちの、ある種「聖地」となり、市民権すら得た感がある。が、いまだにゲイライトそのものは欧州に遅れをとっており、それはとりもなおさず一般的な意味におけるゲイと彼らの希薄な関係性を物語ってもいる。

C-1

おネエ言葉 O-nee Kotoba

そんなわけで勢い込んで『ゲイのお言葉』について考察しようと思った儂だが、よく考えたら肝心の【おネエ言葉】ですら自分では満足に操れないことに気がついた。たぶん、がんばれば、それらしい言葉使いは可能だろうが、立て板に水で喋るのは難しい。しかし、曲がりなりにもプロのもの書きならば、せめて通常の文章を【おネエ言葉】で「書き替える」くらいはできないでなんとしょう。そうやって変換したものを、あらためて考察しなおすことによってそのシステムや構造を解読するくらいならば、おネエ言葉に不自由な儂でもできるのではなかろうか。

そんなわけでテキストとしてある流行歌を選んでみた。

アタシのお墓の前でメソメソしてんじゃないわよ。鬱陶しいわねえ。そんなとこにアタシゃいやしないっての。オケ専じゃあるまいし。ハッテン場で寝待ちするくらいの金は持ってんのよッ!

じゃあどこにいるって、アンタ、千だかマンだかの風になってフラフラしてんに決まってんじゃないのさ。アラ、ひゃだ。いくら死んだってオカマはマンにはなれないわね。だったら千よ。千。

そうね、秋場は光になんのもいいわあ。アタシ寒がりだから。そいで肥料みたいに畑に降りそそぐのよッ! 冬だったらダイヤモンドみたいな雪もいいわねえ。ホラ、アタシ、ゴージャス系だから。

朝は鳥ね。やっぱり孔雀かしら? でも、孔雀ってダミ声なのよねー。でもって夜は星よォ。ありがちだけど我慢なさい。アンタを見守ってあげようってんだから。ストーカー? そんなこというもんじゃないわ。

こうして全体像を眺めてみると、いかにも原曲の〝感動〟を小馬鹿にしたような印象になっていることに気づく。これは儂がこの歌を小馬鹿にしているワケでは決してない。ないったらない。ただ「それらしく」おネエ言葉に翻訳したら、自然と醸し出されてしまったニュアンスである。すなわち、【おネエ言葉】とは対象を皮肉るのに適した言語なのだということが判る。たしかに日本のゲイバーに行った数少ない経験から見ても、こなれたおネエ言葉を弄するママは嫌味なく毒を吐いたり、人の気分を損ねることなくキツイ意見を述べたりといった、共通語では超絶テクニックを要するだろうトリッキーなトークを軽々と披露していた。

また、元の歌詞に比べると、おネエ語化したもののほうが、ずっと文字数が多いことにも気づく。つまりは装飾が非常に付加されているわけだ。その余剰なディティールをチェックしてゆくと、まず気づくのは「自分の感情」を吐露する表現の多さ。鬱陶しいわねえ我慢なさい、など極めて己のキモチに正直な自己主張が激しい。ほとんど現代の女性が使わないような、クラシカルな女性語の多用もまた特徴だろう。アタシゃいうもんじゃないわ、などはまず普通の女性の口から出るものではないだろう。では、いったこの奇妙に記号的な女言葉がどこから生まれたのかといえば、おそらくは花柳界にその起源があるのではなかろうか。

おネエ言葉は、=お姐言葉。いわゆる「姐さん」と呼ばれる芸妓たちの言葉遣いが基礎となっている。

そういえば、かつて花柳界の名花たちは政財界のおエラがたとも堂々と渡り合い、対等に話ができるだけの知性と教養、そして胆力を持っていたという。山の手の奥様でも、妖艶な美人女優でもなく、ゲイたちが選んだ言葉のスタイルが、そんな「セクシャル」でありながら「自立」した才女たちのそれであったというのは象徴的といえよう。たしかに世のおエラいセンセーがた、立場や年齢が上の人々に対してオフィシャルではないにせよ面と向かってホンネを(ときにネガティヴであってさえ)さらけだせるのは、この言語形式だけではあるまいか。もっともおネエ言葉で話すゲイたちがみんな真の姐さんたり得るかというのは、また別の話。

ともあれ【姐さん言葉】に、オケ専ハッテン場、といった専門用語――つまり≪B≫に属する言葉――をさし挿み、さらには、ゴージャス系孔雀かしら、などと自分を持ち上げ(むろん笑いどころのとして)、かと思えば、オカマ肥料みたいに、などと自分を貶めてバランスを取り(ある種の客観性の発露)、かつ露悪的に性的な記号を、マンにはなれないわねストーカー?、といった具合に〝お下劣〟にちりばめれば、ほぼ「それらしい」立派なおネエ言葉ができあがる。ようだ。が、うーむ。無意識にそんな芸当ができるようになるまでには、けっこう時間がかかりそうである。つーことは、おネエ言葉の達人は、やはりそれなりに大したインテリジェンスを持っているのかも知れぬ。

ツァラトゥストラ子かく語りき

ゲイの話す言葉は大きく分けて3種類ある。

まず彼らの専門用語。たとえばゲイ社会の構成員を意味する【組合員】(かつては「お仲間」といっていた)。あるいは【デブ専】【フケ専】【ジャニ専】といった性的な嗜好対象による分類。または自分の性的傾向を端的に表す【タチ】【ウケ(類:ネコ)】など。これらは一般的にも流用されたりして、とくに新宿二丁目堂山町などゲイ・ディストリクトを擁する都市では耳慣れたコトバになっているものも多い。

つぎに彼らを学術的、相対的に分析分類した言葉。レズビアンゲイバイセクシャルトランスジェンダーの頭文字を組み合わせた【LGBT】。とくに同性愛者が顕著な経済市場を形成している英国で彼らの消費するマネーを総称した【ポンクポンド】。同性愛者を嫌悪する傾向を示す人々の総称【ホモフォビア】などもそうだろう。多少なりとも彼らの社会に興味を持つ者の間では普通に通じる語彙もかなりある。

もうひとつ、彼ら独特の言葉遣いから派生した、いわゆる【おネエ言葉】の数々。基本は誇張された女性口調。流行語になった【どんだけぇ~】の類い。【いらっしゃいまほ~】【お黙り!】はじめ宿命的に死語化も早いが海外でのそれらは日常会話のパンチライン(ボケ)として浸透するものも散見される。【チョンチョン格子の安淫売で野垂れ死にサァ】等、映画の台詞などから派生するものも散見される。

以上の3種類を仮にABCとする。

たとえば「ツァラトゥストラかく語りき」を、それぞれのフィルターにかけるとこんな具合だろうか。

A ツァラトゥストラ子がホゲる

B ツァラトゥストラのカムアウト

C やーね、ツァラってば。なに一人でくっちゃべってんのよ!

ここで注目していただきたいのは「ツァラトゥストラかく語りき」といわれただけでは、いったいどんなようなことをツァラトゥストラが語ろうとしているのかサッパリわからないのに対して各々のゲイ・フィルターを通過させるだけで、かなりそのニュアンスが伝わってくるという点だ。つまり、ゲイの言葉を上手に利用すれば表面的な言葉だけでは伝わらないモノゴトの本質や、語り手の心情が端的に伝達できるというわけ。

コミュニケーションの不足が嘆かれている。意志の疎通が難しい時代だといわれている。異なる世代間で。異なる性別間で。異なる生活環境やバックグラウンドを有する者の間で。「言葉が通じない」ことによって齟齬が生まれ、寛容が失われ、ときには憎しみさえも派生させてしまう……それが現代を蝕む深刻な病痢だという事実は誰もが理解している。しかし、どうすることもできなくてただ手を拱いている。断絶の壁はどんどん高く、厚くなってゆく。そこでゲイのお言葉の登場ですよ!

儂は彼らのボキャブラリーや会話術を、断絶ブレイクスルーの非常に有用なツールだと考えている。それらをそのまま使う必要はない。が、ゲイ言語の原理を知ることが、必ず〝他者を知る〟うえで大きな助けになると信じている。「ほんまかいな?」と疑うなかれ。疑う心には暗い鬼が棲む。それてなくとも暗澹たる世の中だ。せめて彼らのお言葉を借りて、明るく晴れ晴れと暮らしてゆこうではあーりませんか。