現代アートとかけて何と解く?

art2 包まれている

現代アートとはなんぞや? てなことをアルプス一万尺小槍のうえでアルペン踊りを踊りながら考えたりする。それは「包まれている」ことではないだろうか。

Fountainw_2 包むアートといって、まず誰もが思い出すのはクリストとジャンヌのクロード夫妻。日本でも『アンブレラ』などでかなり広く知られるアーティストだhttp://www.christojeanneclaude.net/彼らの仕事を見れば儂の言葉が真実だと納得してもらえるはずだ。だって、そこには「本来、包まないもの、包めないものを包んでしまう」ことで「異様なランドスケープを出現させる」という単純明解な〝驚き〟があるだけだからだ。いわゆるシュルリアリズムにおける【強度の強い現実】【上位の現実】の具現である。

ここで儂がはっきりさせておきたいのは、包む対象は何でもかまわないということである。クロード夫妻はアーティストとして兵隊でいえば大将の位だから、ものごっついモノを包んでしまう。けれど、包むことそのものが現実を強化するアートの本質なのだから、むしろ中味は日常的なものでかまわない。なればこそ包む素材のほうが重要になる。この選択を間違えるとアートはヘンな方向に転がっていってしまう。愛と太陽に包まれたらモー娘。だし、優しさに包まれたらユーミンになる。これでは、とてもアートとはいえない。アートというならせめて弘田三枝子くらいスゴいことになってもらわないと、こんにち様に申し訳がたたない。

Tutumuさて、ならばどんなもので包めばいいのか。第一条件は、ほのかに中味が判るような材料であることだろう。簡単なのは半透明の素材を使うこと。写真はハンガリーの街角で撮ったものだが、みごとに剥き出しの状態よりもアート成分が高まっている。このラッピングはおそらく補修のためであろう。が、包まれることによって単なる広場の飾り物から、なんらかのメッセージ性を孕む〝主張〟へと豹変してしまった。これを包んだ者に、なにか意図があったとは思えない。ならば、やはり包まれているという状態がすなわち対象をアートに変えてしまったのだと考えて差し支えない。

そこで思い出すのがデュシャンである。便器でおなじみのダダイズムの人だ。彼の作品に『秘めた音に』というのがある。荷造り用の紐玉の上下を真鍮の板で挟み、螺旋で止めてあるという、それだけのものだ。この紐玉の中心の空洞には何かが入れてあり、これを振るとそれが真鍮にぶつかってカラコロ音がする。これは中身が透けて見える代わりに音がすることで手に取る人間の想像力を喚起するわけで、仕組みとしては「包まれている」アートに属すると考えていいだろう。音を立てる物体の正体。それが何かは当のデュシャン自身も知らない。つまり包まれる対象そのものは、それくらいどうでもいいってことなのだ。

そんなわけで、儂の卓越した意見はデュシャンによって証明されてしまったのであった。

art1 並んでいる

現代アートとはなんぞや? てなことを家つきカーつきババア抜きで考えたりする。そのココロは並んでいることではなかろうか。

Art_narabu01_2たいがいのものは並んでいると現代アートになる。しかも無意味なほどいい。長靴の右足だけとか、洗濯機とか、そういうものがいい。写真の紙袋はロンドンはノッティングヒルの近くでたまたま見かけたものだが大変にアートである。分類としては「コンセプチュアル・アート」ってやつになるのだろうか? 中を覗くと腐葉土が入っていた。うむ。いい。

さらには形や色にバリエーションがあるよりも、相似形のものが延々と行列しているほうがアート率が高くなる。けれど、それが万灯篭だったり道路工事のコーンであったり、心理的であれ物理的であれ、なんらかの目的を持ってしまうとアートから遠ざかってしまう。逆に目的があっても用をなさなかったりすると、アートでなくてもちょびっとアートのかほりが漂う。

お人形は顔が命。アーティストはオリジナリティが命。アートはアートのために存在していることが絶対条件だ。アートであるという存在理由を越えた役割は夾雑物でしかない。真っ赤なお鼻のトナカイさんは現代アート足り得たのに、「暗い道を照らせる」と指摘したサンタクロースによって至高の芸術性を奪われてしまった。遣る瀬無い。心あるトナカイならば資本主義に侵された俗物サンタを抹殺すべきだろう。

現代アートは「並んでいる」ことで現実を非現実に導く。

ふと思い出すのは、英国がまだ英国になる以前のエピソードである。ローマ帝国にイングランド島攻められたとき、英国人たちはセブンシスターズなどの切りたった白亜の岸壁の際に暗黒ブトーの人々みたいな白塗りを施して並び、ギャラクティカマグナム!などと(嘘)奇声を発して追っ払ったというのだ。実際、彼らを見た敵たちは「オバケやろか?」と肝を潰して逃げ帰ったらしい。

ワケワカランもんが並んでいるというのは、それだけでワケワカランならではのパワーがある。ローマ海軍は現代アートという彼岸に接して恐れをなしたともいえよう。いえないか。まあ、いい。だが、「並べる」という行為は間違いなく異界との境界線を引く作業だ。それによって異界を現実に直面させる力を持っている。ならば人は慄かずにいられない。

「現代アートに感動する」とは、そういうことをいう。

そのココロは、

現代アートとは、なんぞや? てなことを三食昼寝つきで考えたりする。

「アートとはなんぞや?」という命題よりも、それは難しい。なぜならば技術であったり美意識であったりインパクトであったり、なんらかの【尺度】が現代アートには通用しないからである。

Artfes_2 儂も「アートとはなんぞや?」ならば禅問答めきはするだろうが、それなりの答を用意することができる。が、コトが現代アートとなると、とたんにへっぴり腰になってしまう。アートと現在アートの境目には、深くて暗い河がある。これが怖くて飛び越せないのだ。せいぜいが匍匐前進して寝そべりながらアートの縁まで近寄り、そこから彼岸に目を凝らすのが関の山。もっとも多くの人たちはその深遠にアプローチすらしない。〝あちらがわ〟の住人は魑魅魍魎とでも思っているのかもしんない。

ともあれアートの世界の端っこから彼岸を眺めていると、ときどきモグラ叩きのモグラのごとく現代アートがウロンな姿をみせる。観察を続けていると、理解できないまでもなかなかに興味深い生態系があることにも気づいた。たとえば、そこは「これがアートだ! と言ったもん勝ち」の世界だということ。それは少年マンガにおける必殺技のようなもので、名称をどちらが先に見開きで叫ぶかに近い。

主人公がギャラクティカマグナム!などと叫ぶ。敵が吹っ飛ぶ。だが、それがいったいどういうものなのかは決して説明されない。ただただ読者は「いかにも強そうで長い技名である」「見開きである」「背景でなんか爆発してる」といったフラグを元に漠然とスゴイものなのだと納得しなければいけない。本来のアートというものは、まずテーマが設定され、そこからタブロー(あるいはオブジェ)が導かれ、そこになんらかの名称が与えられた。が、現代アートはまずギャラクティカマグナムなりサンダークロススプリットアタックなりといった技名やコンセプト……すなわちフラグありきなのである。

そこで儂は、ふたつのアートの差異は目の前に提出されたものが〝読み解けるように創造されたか〟あるいは〝観る者を無視して放置プレイされているか〟の違いではなかろうか――という仮説をたててみた。かつてアートは「解釈できない」のは作家の力量の問題であった。が、現代アートでは解釈する側の感性の問題だったりするのだ。モダンアーティストにつきまとう胡散臭さの原因も、それで解決できる。テメーが下手糞なのを棚に上げて人の感性を小馬鹿にしちゃうアーティスト様って、いったいなに様? とか。

もっとも現代アーティストや現代アートになじんだ人たちにとっては、そんなの「なにをいまさら」の意見かもしれない。ただ、そういう意見はヒエロニムス・ボッシュの絵画にちりばめられた寓意をひとつ残らず指摘できるようになってから言ってほしいとも思う。はっきりいってウォーホール以降の作家と、彼らを奉った評論家たちに欠けているのはそういった系統だった知性だと儂は考えている。

と、そんなわけで儂はボッシュの寓意を解読(デコード)する手法でもって、これから枠組みにはまらない(失笑)彼岸の芸術を枠組みにはめてみたいと思う。なにしろ感性に乏しい人間なので、そんなふうにしか解釈できないのだ。なぜ、そんなことをするかって? それは悔しかろうが嫌いだろうが、もはや現代アートはメインストリームの文化だからである。今を生きる人間にとって、それは少なくとも、なんとなく知っておかなきゃならない気にさせるジャンルなのだ。まあ、謎掛けのココロを解くくらいの気持ちで分析を試みてゆこう。