映画・テレビ

アイアンマン

そろそろマーベル原作のアメコミ映画もネタ切れじゃないかと思うのだが、なんやかやと毎年新作が封切られる。が、興行的には大成功しても映画として完成度の高いものはほとんどない。『Xメン』三部作と天才ギレルモ・デルトロ監督の『ヘルボーイ』くらいだろうか。

と、そんなところに地味ながらなかなか面白い映画が登場した。『アイアンマン』。である。

マーベルに限らず、今日びの特撮大作のヒーローはスタア俳優、もしくは若手演技派アイドルが主流。出演陣が豪華でないと虚構{ウソ}を虚構{ウソ}として楽しめないからだ。最近なら『クローバーフィールド』や『グエムル』みたいに、よほどの新味がないと無名キャストではシラケてしまう。

『アイアンマン』の主人公を演じるのはロバート・ダウニーJr。スタアというには微妙な位置。若手にもアイドルにも程遠い。けれど確実に演技派ではある。かつて本物だったせいか(笑)イッちゃってる系の役は抜群にうまい。今回も「正義の味方」でありながらエキセントリックな自己チュー天才科学者というアクの強いキャラを楽々と演じている。

加えてヒロインにグゥイネス・パルトロー、敵役にジェフ・ブリッジスという芝居巧者を起用。おのおのに演技の〝しどころ〟も用意され、映画好きが満足できる作品となった。むろん荒唐無稽ではあるのだが、演技クオリティが虚構{ウソ}に妙なリアリティを与えている。

ダウニーJrはヒーローらしくないどころか、いい人であろうとすらしていない。そんな彼とブリッジスとのギリシア悲劇的な父と子の葛藤は、ありがちな勧善懲悪の枠を越えて胸に迫る。

また、主人公が拉致された粗悪な環境で作るプロトタイプ戦闘ガジェット(『鋼の錬金術師』のアルみたいで萌え)の〝なさけなさ〟や、試行錯誤の末に至った空を飛ぶときのキューピーちゃんポーズの〝おバカ〟な感じなどのディテールがすこぶる愉しい。

つまりは映画が見た目だけのカッコよさに縛られていない、「ヒロイズムの嘘」の犠牲になってないんだよね。特撮ファンでない人たちにこそ映画館に足を運んでほしい作品である。

ヘルボーイ Ⅱ

決して名作じゃない。傑作でも快作でもない。かといってB級でもないし超大作ってわけでもない。なのに、こんなに愉しんじゃっていいんだろうか? というくらい儂は満足して映画館を出たのでありました。うーむ。この感じ、いつかどこかで味わったことがあるゾ……と考えていたら、はい、思い出しました。初期のブライアン・デ・パルマ映画を観たあとの感覚に似てるんだわ。『アンタッチャブル』以前の、「映画を撮るのが大好き!」という情熱がスクリーンから匂い起たんばかりの、それゆえにバランスの悪~い作品群。いや、デル・トロのほうが才能はあると思うけどね(笑)。

それにしても、たくさん予算が貰える監督になったんだねえ、という感慨がひしひし。特撮濃度はいままでの彼の作品中でも最も高い。なにもそこまでってくらい、もう、ぴっちぴち。プッチモニじゃなくってよ。あ、もっちもっちもっちもちっと (By 峰子)、でもなくってよ。しかし、そういう作品にありがちな〝特撮に頼った〟感じがないのがエライ。お話は他愛ない。はっきりいって粗筋を紹介するほどじゃない。矛盾もたくさんある。それでも、えーもん観せてもろたーって気がします。

たとえばバケモノ市場のシーンとかすんばらしいのよ! スターウォーズの第一作を観たとき、宇宙人酒場のシーンに胸を躍らせたものだが、あのときの感動が蘇りましたですよ。ヒエロニムス・ボッシュの絵画世界を踏襲しているようで、まるで、そこはリアル快楽の園!感激です。バケモノたちの造形だけではなく、作品全体を通しての色彩なんかもかなりボッシュを意識してるんじゃなかろうか。どうやらⅢも作られそうな予感 (伏線アリ。もっともデル・トロはこれからしばらく『ホビット』にかかりきりだろうけど) だが、ぜひともこのまま突っ走っていただきたい。

ハナムプトラ3

インディ・ジョーンズに続いて「あーあ。なんで続編を作っちゃったかね。溜息」第二弾。中国なのに「ハナムプトラ」とは、こはいかに? ミイラを意味する「Mummy」って言葉の響きが、日本人にとっては可愛らしすぎるから? それとも「毎日、マー! みんなでミー! 毎日みんなでマミー!」だから?

いや、ブレンダン・フレイザーはまださほど年寄りというわけではないのだが、せっかく童顔を克服して本格的演技派俳優の評価を得たというのに、なんというかこの作品に出てしまったせいでそれが台無しになっちゃった気がするな。レイチェル・ウェイツがエヴリン役を降りたのは、前作から本作までの間にオスカーを貰ったからじゃなくて、脚本がツマらなかったからではないかと思われ。ジョン・ハナ、……ジョン・ハナの続投はきっとフレイザーが好みのタイプだから、彼と一緒に仕事したかったんでしょう(笑)。

特撮は、よくできてます。というか、あまりにも特撮の技術が上がりすぎてしまったために、どんどん肝心のドラマが弱くなってるよね。この映画に限らず一般的に。『ロード・オブ・ザ・リング』みたいに、花も実もある作品というのはなかなかない。

ちなみに本作の最後に、もう次の作品のヒントが。どーやらペルーを舞台にするらしい。世界ミイラ巡りの様相を呈してきたな。日本にもくるかしらね。即身仏とかあるもんね。

ナルニア国物語:カスピアン王子の角笛

儂はたいがいどんな映画でも観る。とくに食わず嫌いはない。んだけど、強いて言えばミュージカルファンタジーにはさほど触手が動かない。いや、それでも観るんだけどね。んで、結果的にがっかりして帰ってくることが多いんだわさ。ミュージカルは劇場で観るもの、そしてファンタジーは本で読むものとどこかで思っているからかもしれない。

とくにファンタジーにかんしてはほとんど偏見。だってさ、自分の想像力で補完しなきゃ非現実の世界ってシラけちゃわない? そういう意味で『指輪物語』三部作は、もんのすごい名作というかエポックメーキングだったわけだけど、それまで当らないとされてきたファンタジー映画がこの期に及んで粗製濫造される結果を生んだという点では大きな罪があるともいえますな。

ナルニア』シリーズは、まさしくそんなAD指輪を代表する駄作。前作はまだしも、今回の『カスピアン王子の角笛』はほんとーうにツマらなかった。ディズニーの限界といってしまえば、それまでなんだけど、ちょっとそれにしてもこいつは映画として成立していないのではあるまいか。「期待して観なければ、それなりによくできてたよ」という声も聞いたけど、儂はダメでしたねえ。確かに美術はよくできてた。でも本格的で重厚なセットが、薄っぺらな演出とシナリオのせいでまったくの無駄になっちゃってるのが悲しい。

なんつーかさ、鼠にアキレス腱を切られて人間が死んでしまうとか、活字でならばともかく映像で見せられると不快感しか残らないんだよな。んで、なによりも、その殺される敵役人間側のキャスティングがみなイスラム教徒をイメージさせる、アラビア系の役者だったりするのが、もー耐えられません。アメリカ→キリスト教ファンダメンタリスト→ジョージ・ブッシュ的な価値観の押し付けが、みごとに原作のクリスチャニズムと癒着してキモチワルイことこのうえない。いいかげん映画としてはこちらも締まりがないんだけどライラの冒険シリーズ『黄金の羅針盤』の反宗教的なプロテストを応援したくなってしまいます。あーやだやだ。

観たあとで相方が、こないだはあんなにブーブーいっていたというのに「 もーいっぺん『Mamma Mia!』を観たほうが、まだマシだった 」と洩らしておりました。激しく同意です。

マンマ・ミーア!

ひさしぶりに放ったらかしておいたGayderのアカウントをあけてみたら、全メンバー宛てにこんなメッセージが。

Gaydar is proud to present a screening of Mamma Mia! The Movie exclusively at the ODEON Leicester Square - Pride London Weekend, 6th July at 7.45pm (show time 8.30pm)
Recreate your favourite Mamma Mia! moments in costume, song and dance. Gaydar prizes and subscriptions for the best outfits. Wind down your Pride weekend celebrations with Gaydar and Mamma Mia! The Movie.


たしかにABBAはマドンナ姐さんと並んでゲイアイコンの特Sクラス。今回も思いっ切りピンクポンドを当てこんだパブリシティですね。まあね、イギリスは『SATC』だって、一日とはいえアメリカよりに先に封切られたくらいだからね。きっと、この企画も派手に盛り上がったことでしょう。 儂は行ってないから知らないけど。

あ、もちろん普通に封切館へ観には行きましたよ。相方と一緒だったんだけど意見は真っ二つに分かれた。

相方曰くは、メリル・ストリープ始め主要キャストがあまりにも素人臭くってミュージカル作品として成立していないのが致命的。だという。儂はむしろ反対に、その素人臭さ、普通の人たちが歌い踊る楽しさこそがこの作品の真骨頂であり、むしろキャストの中で唯一プロのミュージカル唱法を聴かせたアマンダ・セイフライドが世界観を台無しにしていたとさえ思う。と、感じた。島中の女たちが老いも若きもチビも太っちょもみんな揃って大行進する「ダンシング・クィーン」のシークエンスとか、もう、膝がうきうきするくらい楽しかったもん。振り付けは舞台バージョンを手がけたアンソニー・ヴァン・ラースト。よく、わかってらっしゃる! そんなわけで、儂は好きですね。これ。名作だとは思わないけど。

最後の結婚式シーンに登場する、沿道をぼんぼりで飾られた島の教会が夢のように美しかったな。

セックス・アンド・ザ・シティ

あの四人が帰ってきた! キャリーが、シャーロットが、ミランダが、サマンサがNYのストリートにマノロの靴音を響かせて帰ってきてくれた。もう、それだけでいい。それだけで嬉しい。〇四年にTVシリーズが幕を下ろしてからずっと、ファンたちはこの瞬間を待ち侘びていたのだ。

 終了直後から映画化の話は常にあった。けれど語り手である主人公キャリー役のサラ・ジェシカ・パーカーと、このドラマの象徴ともいえる性の猛禽(笑)サマンサ役キム・キャトラルの間の確執から実現の難しさを膾炙されてもいた。噂が浮きつ沈みつするたびにファンも泣いたり笑ったり。まことに罪作りである。

 そんな一喜一憂を製作側も知っていたのだろう。映画は徹頭徹尾ファンサービスとなっていた。「観たい!」と思うシーン、聞きたい台詞の連続。予定調和といえば予定調和だ。エピソードはすべて先が読めてしまう。だから英米の辛口評論家にはいまいち評判が悪かったりもする。

 が、そんなこたどーでもいい。というか問題ではない。始めっから作品としての完成度よりも、いかにTVシリーズに雰囲気を近づけるかに意識的にポイントが置かれているのだから。むしろ映画だからということでアプローチしやすく各キャラの毒が若干薄まっているほうが残念。

 むろんこれはSATC初心者にも充分に愉しいコメディ映画だ。しかしファンにとって四人はまさに友達だった。本気で彼女らに共鳴し、ときに反発し、喜怒哀楽を共にしてきた。少なくとも、そう感じていた人間が『インディジョーンズ4』ファンよりたくさんいた。私は仲間の一人として素直にハッピーである。

 そう。『セックス・アンド・ザ・シティ』を映画館で観るとき、そこに居合わせた観客たちははみな友達なのだ。

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

やっぱり、もう、アクション映画としてインディが主役を張るのは難しかったのではあるまいか。想像以上にハリソン・フォードの動きがおじいちゃんだったので我ながらショックでした。あと、オチが……。「夢オチ」と並んで、決してやってはいけない「宇宙人オチ」なんだもん。おまいは馬鹿にしとんのか? と思いましたですよ。特撮映像は素晴らしいんですけどね。しかし儂には、しょーもないオチに説得力を持たせるための(そして、ハリソン・フォードの年齢を誤魔化すための)メクラマシにしか見えなかったな。

冒険譚なんだから別に破天荒でも矛盾だらけでもなんでもいいんだけれど、人間の物語として描いてほしかったですね。故手塚治虫氏が「モアイ像やナスカの地上絵を宇宙人の仕業だとかいう人がいるけれどトンでもない。そんなふうに考えたらロマンもクソもない」と言っておられたのを思い出します。あれを人間がいかにして描きえたか? というところにロマンというのは生まれるわけですから。そう、今回のインディ・ジョーンズには三部作に横溢していたロマンがないんだよ。だから胸が躍らないの。

ケイト・ブランチェットは相変わらず完璧な役作り。姫川亜弓のような女優だ。裏切り者の相棒役をやったレイ・ウィンストンも相変わらず達者。ちなみに彼は容姿的に儂の理想のオッサンです。いままでは「セクシービーストの」とか「ニル・バイ・マウスの」とか「ディパーテッドでジャック・ニコルソンの手下だった」とか説明してもわかってもらえなくて淋しかったんですけど、これからは「こないだのインディ・ジョーンズの……」と言えば膝を打ってもらえそうなので嬉しいです。大作にも出てるけど『ナルニア』ではビーバーおやじの声だったし、『ベオウルフ』は主役だったけど3Dだったしな(トホホ )。

Happy-Go-Lucky

大好きなマイク・リー監督の新作。この前の『Vera Drake』から、もう四年も経ってるんだね。時の流れは早いものよ。大作『Topsy-Turvy』のあとにティモシー・スポール主演のジェントル・コメディ『All or Nothing』がきたように、五〇年代の女性の中絶問題をテーマにした重苦しいドラマに続いての今回は本領であるフツーの人たちのフツーの暮らしの中に起こるフツーの出来事を丁寧に追った、いわゆるKitchen Sinkもの。

そーれにしても、みごとに物語らしい物語がない。彼のこっち系統の作品の代表といえば『秘密と嘘』になるんだろうけど、さらに削ぎ落とされている。もちろん、それなりに主人公のうえにスッタモンダは降りかかるわけだけど、どこにも誇張された部分がない。舞台がうちの近所ということもあって、見慣れた風景がいっぱいでてくるもんだから (最後のシーン、主人公がボートを漕ぐ池はうちから歩いて五分のとこにあるフィンズベリーパーク) 余計に当たり前感が漂う。

そんなわけで粗筋を書くのも難しいんだけど、主人公のポピーは30歳になる独身の小学校教師。文字通り「Happy-Go-Lucky」を絵に描いたような楽天的な性格。ハデーな服を着て、ものごとを決して悪い方に考えない彼女は生徒にも回りの人々にも愛されて幸せな生活を送っている。映画の冒頭で彼女は自転車を盗まれちゃうのだが、その時だって、困りはするし腹を立てもするのだけど、むしろそのハプニングを楽しんでいるかのように笑顔を絶やさない。

だが、そんな彼女を「信じられない」人たちもたくさんいる。実の妹だったり、自動車の教習官だったり、浮浪者だったり、暴力的な問題児だったり、それぞれがそれぞれの理由で彼女の幸福を信じようとしない。なぜならば信じてしまったら、それは自己否定になってしまうから……。ポピーは、けれどそんな人々を理解したいと思っている。「救ってあげたい」とか「気づかせてあげたい」とか大それたことを夢想しているのではなく、ただただ解れるといいなあと接触を試みる。せっかく縁があって関りを持った人たちだもの。と。

けれど結局のところ自分を助けられるのは自分だけなのだ。ペシミストにつける薬はない。心の傷は己で癒すしかない。ポピーの奇妙な情熱と能天気なアプローチは、それゆえ彼ら彼女らが目を背けているものを照らし出してしまう。映画のなかで提出される様々な問題 ――物語―― は、だから解決されないでそのまま観客に委ねられエンドマークへと至る。

儂らはドラマの中で生きている。一人一人がドラマを抱えて右往左往している。マイク・リーはポピーの視点を通して、それだけを主張する。さあ、あなたの手で、足で、あなたのドラマを完結させなさい。大丈夫。この世界は、そんなに悪いもんじゃない。そんなふうに微笑みかける。

JUNO

十六歳の少女が妊娠する話。なんていうと、それだけで観る気が失せる。なぜなら、そこに描かれるのはたいていただ身勝手なだけの〝純愛〟であり、命を宿す素晴らしさに基づいた感情論だからだ。私はその手のコムスメの論理が大嫌いなので、この映画もハナから無視していた。

が、どうやら悪くないらしい、というのを聞きつけ「そんじゃまあ」と期待せずに映画館へ出かけた。結果を言えば、『ジュノ』は私のようなヒネクレ者こそ観賞すべき作品であった。だって妊娠してしまう主人公の少女こそ、コムスメの論理を嫌うヒネクレ者だったから――である。

まずなにより彼女がおなかの赤ちゃんの父親をこれっぽっちも責めたりせず、うっかり妊娠してしまった自分の責任として受け止めようとする姿勢がステキだ。そして、それを愛の問題にすりかえたりせず、生まれてくる子どものことを考えた末、養子縁組という常識的な判断に至る。

「だって私はまだ精神的にも経済的にも母親になる準備ができていないもの」と、彼女は言う。実はこの映画は、そんなジュノと、彼女が決めた縁組先の女性との、ふれあいの物語でもあった。

優しくリッチな旦那さまと塵ひとつ落ちていない高級住宅に住む完璧な妻でありかつキャリアウーマン。けれどどんなに条件が揃っていても、それは「母親になる準備」とは別のものなのだ。と、いうことを『ジュノ』は教えてくれる。

ジュノはローマ神話の女神の名前。神々の長・ジュピターの妻であり【母性】を司る。映画のジュノはまだ母性を持たぬままに子どもを産み、その経験を経てようやく自分が誰を愛しているかを知る。愛を学び、いつか持つだろう母性を夢見る……。

『ハード キャンディ』に続きエレン・ペイジは演技派の面目躍如。怖カワイイ。

Persepolis

米アカデミーの長編アニメ小ではなク外国語映画賞にノミネートされて話題になった映画。ようやく英国でも公開されました。ほんとうに素敵な映画。フランスは独自のマンガ・アニメ文化を花咲かせているけれど、ある意味でのその結実と申せましょう。

イラン人の漫画家、マルジャン・サトラピが描いた自分の少女から学生時代に至るまでの物語。前近代的な、しかし同時に西洋的(あるいは西洋から与えられた)自由を謳歌していた時代から、イスラム革命を経てイデオロギーのなかに閉ざされ鬱屈してゆくイラン。リベラルでポリティカルな両親の元に生まれたマルジャンは「革命」を夢見る闊達なパンク少女へと育ってゆく。

やがて彼女はオーストリアへの留学を許されるが、現実の西洋的自由に放り込まれたとき、あまりにもちっぽけでなにもできない自分に傷つき恋にもやぶれホームレスになってしまう。なんとかイランに帰りつき両親との暮らしに安寧を見つけはしたものの、いちどヨーロッパの現実を見てしまった目には、祖国はなんとも矛盾に満ちた不自然な場所でしかなかった……。

なにが「いい」とか「わるい」とか、「ただしい」とか「まちがっている」とか、そういう思想的な主張を一切排して、物語は近代のイスラム社会の姿を日常的なエピソードから淡々と描いてゆく。マルジャンという一人のナイーヴな少女の目を通して、しかしユーモラスにそれらは語られる。

そしていつしか観客は自分たちがイランについて、あの時代について実は何も知らなかったのだと気づく。マルジャンや、彼女の両親や、彼女を取り巻く大勢の優しく聡明で勁い魂を有する人たちに共鳴しながら、ほとんどショックを受ける。そこに自分たちと同じ、いまを生きる人間たちが沢山暮らしているのだという単純なことさえ認識していなかったのだと。

やっぱり大勢のイスラムの女の子たちは、あの頭に巻いたスカーフを鬱陶しいと考えていたんだね。

Persepolis12 偉大なる文化国家であったペルシャの末裔としての尊厳と矜持を忘れず生きている、マルジャンのおばあちゃんのキャラクターが実に素晴らしい。彼女の愛国心――イランへのではなく、ペルシャへの――は揺るぎない。その揺るぎなさに胸を打たれる。愛国心というのは、その国が築き上げてきた固有の文化への敬意である。それは「たったいまあるだけ」の国家への忠誠なんぞでは決してない。

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