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Cloverfield - HAKAISHA

まったく。まーったく期待していなかったんだけど噂の『cloverfield 』に行ってまいりました。期待できないのに、なんで行くのよ? と言われそうですが怪獣映画はとりあえずみんな観ることにしているので(笑)。で、結果はと申しますと期待していなかったせいなのか、これがスゲ面白かったのでありました。巷では「どんな造形の怪獣なのか?」とか、まるでバブル期のホイチョイ並にあざとい予告パブリシティの話題ばかりが先行してしまっている観がございますが、そーゆー作品じゃないですね。もっと骨太の映画です。

平成ガメラの第三部で「ガメラに家族を殺された少女」が描かれたとき、これはかなりオキテ破りというか「言ってはならない千年の約束」だと思って感動したんですが、この作品も、ある意味でオキテ破りでしたね。なぜなら、もしこの世界に、スーパーヒーローも秘密兵器も存在しない当たり前のこの世界に怪獣が現れたとき「我々と同じ、当たり前の人間はどう行動するか。なにができるか」というのがテーマだったからです。

答 ―― なんにもできない。

そう、この映画は極限の状況において、なにもできない人間の、ほとんど脊椎反射のような右往左往を冷徹に観察した非常に底意地の悪い作品なのでした。

たしかにキャラクターの一人はある意味でヒロイックな行動をとりますが、その動機は僕は君のためにこそ死ににゆく的な嘘臭さに鼻が曲がりそうなお題目ではありません。死を決意したわけでも、なけなしの勇気を奮い起たせたわけでもない「それしか思いつかなかったから、そうしている」だけ。それゆえその行動には無謀ながらも説得力が生まれ、観客もなにもできないまま映画の世界に引き込まれてゆくのです。また、全編がハンディカムによる撮影なので(儂は普通に撮ったものを後加工したのだと思っていたんですが違うらしい)嫌が応にもリアリティが増します。けれど、実はこのリアリティは映像というより登場人物たちの「なにもできなさ」によるものなんですよねー。

US版『Godzilla』を観たとき、いちばん腰がくだけたのは〝ゴジラっ子ちゃん〟がわさわさ登場したときでした。この作品でも、途中ちょっとその悪夢が蘇りかけたんですが、この辺りの処理も見事でした。すべてのエピソードが人間の「なにもできなさ」をクローズアップするため用意されているんですよ。これでもか!と、ヒトの無力さ、脆弱さを観客に付きつけてきます。泣いてるヒマなんかありゃしない。泣いてもすぐ乾いちゃうくらいスーパードライ。

ある意味でこの作品は日本の初代ゴジラの対極にあったりするのかもしれない。けど、初代ゴジラを名作にしていたのも実はやはり人々の「なにもできなさ」のリアリティだったのかもしれないなー。もっとも、あちらは大日本帝国の暗愚な戦争に巻き込まれてしまった当時の日本人たちのメタファーだったわけだけど……とか考えていたらエンディング音楽が思い切りゴジラへのオマージュだったりして笑ってしまったワタクシ。

ちなみに映画の出だし10数分間は、映画史に残る最も退屈な10数分でしょう。が、これが後々効いてきます。我慢しましょうね。ああ、いまからDVDの発売が楽しみだなー。

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